昭和52年03月18日 朝の御理解
御理解 第27節
「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」
昨日ある人のお取次ぎをさせて頂いて、もう本当にまぁ悲しい事だなと言うて、朝の食事の時、丁度、昨日は高橋さんと二人でしたから、高橋さんとお話した事でしたけど。信心をさせて頂きながら、どうしてこんなに不幸せな事になって行くだろう。もうほんとに、悲しい事だと。もう本当にあの、正直な方なんです。非常に正義感も強い方なんです。そして一生懸命、子供達の為に尽くされるんですけれども、一人ひとりその子供達から、裏切られていくという、もう実に悲しいことなんです。
その事をお取次させて貰って、高橋さんと話したんですけれども。信心を頂いて不幸せになるはずは無い。おかげの受けられない筈は無い。信心とは人間が幸福にならなければならなく出来ておる。それにおかげを、良う頂かんでおると言う事は、本当に高橋さん、悲しい事ですねて、高橋さんもよく知った人なんです。それで本当にあの、神様が言う事を聞かぬ子は、親でも仕方があるまいがと。
時節を待っておかげを受けたが良しと仰るのはもうこれは、天地の親神様が、自分のそれこそ血を吐くような思いの、これはお言葉だねと。信心をすれば、こんなにおかげが受けられる。信心をすれば、こんなに幸せになれる。のにも関わらず、信心をしておっても、このような不幸せな人があるという事は、どういう悲しいことだろうかと。本当に神様が、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る、そのおかげを良う頂かずに。信心しておって、ね。仕方がない。
親の言う事を聞かぬ者は、子供であっても、仕方があるまいがと言う事は、信心を頂いておっても、幸せにない人の事でもあると、私は思いますね。これは例えば親の言う事を聞かぬ子は、子供でも仕方がないと言う事はね。信心を頂いておっても、親の言う事を聞かぬ。信心を頂いておっても、神様の言う事を聞かぬなら、もう本当に仕方がない事ですね。悲しいことです。神様はもっと悲しい事であろうと思う。信心がないもう神様なんてと言うなら、まだしものこと。
はぁ何時も神様とお願いをしたり、お縋りしたりをしておって、幸せでないという事。何故、幸せでないかと。親の言うことを聞かぬからです。神様の言う事を聞かぬからです。神様の言うことを聞いて、行じて守っていくならもう誰でも、必ずおかげを受けられるごとなっとるのが信心です。人間が幸せにならにゃならんごとなっとるのが信心です。してみると、沢山なほんなら、御道の信奉者があるけれどもね。
その神様の願いであるところの、氏子信心しておかげを受けてくれよという、おかげを受けておる氏子は、本当に少ないという事。という事は如何に、親の言う事を聞いていないか、そして親はもう、言う事を聞かぬもんな仕方がなかて。何遍何十遍、何百遍繰り返し繰り返し、言うて聞かせても、それを聞こうともしないなら、もう仕方がないと。神様は、サジこそ投げなさらんけれども、神様がこれはもう本当に、神様が血を吐きなさるように、悲しいお言葉であろうと言うて、まぁ昨日高橋さんと話しました。ね。
私はそれを本当に、昨日は実感しました。この人はこんなに正直な人。子供達にもこれだけ言うならば尽くされる人。それでいてもう一人ひとり裏切られている。昨日はどうして良いか分からんとこう言われる。まぁそこで私はねあなたがどんなに、例えば親としての、いわゆる親心で子供達に尽くす尽くすと言うけれども。神様に尽くさんからだよと、私が申しました。子供達に尽くすとは、一時ばっかり止めなさいと。
んにゃもうとても、私は尽くせと言ったっちゃ、尽くすものも何もないですけれどもとこう言われる。そんならもうここで、人間心を捨ててただほんなら、子供達が裏切ろうが裏切るまいが。親を親と立ててくれれば、それが有難い。今度は親を親と立ててくれなかったら、まぁそれでも良い。子供達にはあぁして貰わんならん、こうして貰わんならんという思いを捨てて、その思いを捨てて、神様に尽くしていかれたら、おかげ頂かんことはないですよと。
いっちょうもういい加減な所で、信心をそういう風に切り替えなさいよと。もう何十年信心をしてます人です。ですから何十年信心をしておっても、私はそこの所の切り替えが出来ない人は、何時までたってもおかげが受けられない。これでは神様だ仏様だと言うような人でも、次々難儀な事が起こって来る時、ほんなら信心をしておってもです。あがしこ信心しござる、拝みござる参りござるばってん、一向幸せそうじゃない。
例えば今のその例で言うならば、本当に片っ端から、何人も何人も子供さんが、娘も息子もおるけれども、その片っ端からこの子供はと思いよると、ちゃんと裏切られておる。もうそれを私はあの聞かせて頂いてから、本当に悲しい事だと思いました。そしてほんなら、自分は信心しておるつもりでおる。場合にはこれだけ信心するのにという風に思うておるかも知れん。信心はいっちょんしよらん。ただ参ってきよる、何十年金光様、金光様ち言うちから、言いよるだけのことであって、信心をしよらん。
信心をさせて頂きゃ、いわば親の言う事を聞かぬ子は、親でも仕方がないと、これは言われるのは、神様が血を吐かれるほどしに、苦しいお言葉だと、私は昨日申しました。まして信心をして日々、ほんならお参りもさせて頂いて、おかげを頂ききらんと言うのは、もう本当に、神様に悲しい思いをさせておる。親の言う事を聞きゃ、もう本当におかげそれは、先日からも、文男先生が言っておりますようにね。
貧争病のない世界に住むという事は、貧乏がなくなってしまうとか、病気が無くなってしまうという事じゃないと。争いが無くなってしまうという事じゃないけれども。問題は、自分自身が信心になるという事だ。信心になるという事は、どういう事かと言うと、信心が分かるという事は、どういう事かというと、信心が血に肉になるという事は、どういう事かというと、ほんならそれを例えば一般では、難儀と言う難儀がです。難儀ではない、御礼を申し上げねばならない事ばかりなんです。
それがみんな神愛なんだと。そこにほんなら御礼を申し上げる。例えばそういう心の状態が開けてくる稽古をするのが信心なんだ。何十年たっても子供が裏切る、もう本当に子供にがっかりするのではなくて、自分の心の上にです。何故自分はこうやって不幸せになっていかなきゃならんか。段々年もとっていっておるが、このままいったらどうなるだろうかと。もう縋られるもの当てになるもの、絶対のものが神様以外にはないんだから。神様の言うならば、心を神様に向けて、一心の信心をしていく以外にはない。
子供にも頼りなさんな。家族の者にも頼りなさんな、と言うてあんたどんには頼らんと言うて、宣言する事も要らん。見てくれりゃ有難いのであり、世話をしてくれりゃ有難いのであり、世話をしてくれなければ、それでまた有難いのである。どうでも良いそちらのほうは、もう切り捨てて、そして神様一心に縋って行って、それもおかげである、これもおかげであるという事が、本当に分かる心の状態を、先ず頂くという事が、親の言うことを聞いた人の姿です。
ですからそういう、今度は心の状態が開けてきたらです。確かに病気の人は病気も癒えるだろう。家庭に不和だった人は、家庭が円満になってくるだろう。財に恵まれなかった人は、必ず財に恵まれてくるんです。だから先ずそういう心を開かせて頂くという事が、信心なのだという事です。今日は。あの人は仏様、神様のような人だと言うても、次々難儀な事が起こってくると、世間ではどうしてこげんあろうかと言う様な人がある。信心して、おかげを受けるのは別ものと言われる。そこんところをです。
今日私は信心をしておっても、どうして次々と、あぁいう難儀な事が起こるであろうか。どうして次々、子供達に裏切られねばならんのだろうかと、という風に聞いていただいた。信心を頂いておるけれども、一つも信心を頂いていない。その証拠には不平があり、不足があり、腹立ちがある。信心を頂いて、信心を頂いていく、信心を愈々自分のものにしていくという事になると、あれもおかげである、これもおかげであるという心の状態が開けてくる。
そういう信心を目指すという人が、親の言う事を聞いておるのであり、神様の言う事を聞いておるから、心の状態が開けてくる、有難い事になって来る。信心頂いておれば、尚更の事神様がです、信心しておって難儀が続くという。それこそ言う事を聞かぬ子は、親でも仕方がないと、神様がもうこれは、血を吐くような神様のお言葉だと思うですね。神様にそういう悲しい、血を吐くような思いをさせておる。ほんなら金光教の信者、信奉者が、どのくらいおるか分からんですよね。
もう本気で、神様の言う事を聞く気にならなきゃ、本当の助かりはないです。だから信心と言うものは、そんな中途半端なもんじゃない。例えばここで言われる、お取次ぎをお願いしておかげを頂く。ちょっと願い事が成就した。一つは叶うた、二つは成就したというようなものでは、大体そういう意味のことを、ここでは言ってもあると思うのですけれども、それではほんなら信心頂いておる者の、本当の値打ちというものじゃないでしょう。本当に助かっていうなら、神様も喜んで下さる様な助かりをした時に、私共も信心のおかげという事が言えれ、神様も喜んでくださる事です。
今日は私はその神様がね、信心しておっても、神の言う事を聞かぬ子は、もう神も仕方がないと言うておられる所を聞いて頂いた。もう本気で聞く気になり、本気で守る気になりゃ、親の言う事も聞かれ、守れれる事柄を、右左にして親の言う事を聞かずに、自分の言い分だけを並べ立てて御祈念をしておる。これではおかげを下さっても、おかげはそこから漏れておるのです。私共がもう一遍、神様を本当に悲しい思いをさせておる所をね、一つ、分からせて貰うて。
信心頂いて、毎日拝みよるから、毎日お参りをしよるから、神様も喜んで下さっておると言う事じゃ、決してないです。親の言う事を聞かぬ子は、親でも仕方がないと、神様が思われておる自分を、先ず発見しなければいけません。神様が右と仰ったら、正確に右と。左と仰ったら、正確に左を取らせて頂く様な生き方を、本気で身に付けておると、先ずは、神様のいわゆる、お心が分かるようになる。
ご深慮の深さが分かるようになる。そしてほんなら起きてくる、一つ一つのそれがいやな問題、難儀な問題と思うておった、その問題に対してでも、御礼が言えれるような心が開けてくる。そういう心の開けてくることが信心なんです。だからそういう心の状態が開けてきて、神様が下さろうとしておるおかげを頂き止める。そん時に初めて信心して、おかげを受けて、神様に喜んでもらい、安心して貰った信者氏子であると言う事が言えると思うですね。そら実際色々な実生活においてです。
そんな生易しい事ではないと思います。けれども、その生易しい事では、なければない程にです。それをおかげと分からせて頂いた時が、素晴らしいんです。信心をするという事はね。そう言う事を分かる事です。言うなら叩かれても、それはやっぱり痛い事は痛いですけれどもね。痛いけれどもより素晴らしいものを頂くのですから、分からせて貰うのですから、けれども有難いと言う事になってくる。信心が分かると言う事は、そこが分かっていく、そう言う事が分かって行く事なんです。
私は昨日、高橋さんと話しましたように、もう本当に神様を悲しい思いをさせると言うことはね。おかげを頂ききらんでおる信者氏子でありながら、おかげを頂ききっとらん。何故かと、親の言う事を聞かぬから、もう神様も仕方がないと言うてござる。してみると参っておるとか、教えを頂いておるとかとかと言うだけじゃないと言う事が分かるです。参って、本当に信心の稽古に、やはり通うてこにゃ。
そして有難いとは思えない、どうも腹立たしい事であると言う事もありましょうけれども、それをよくよくそれをほんなら、信心の稽古の材料として、稽古させて頂いておると、それがおかげであるという事が分かる。そういう稽古を繰り返し繰り返し、五年十年と、信心を続けていくうちにはです。心の中に我とわが心が拝めるような心も生まれてきて、そういう心の状態になってきたら、何時の間にか薬箱がなくなっておった。何時の間にか、お金に不自由せんで済むようになっておった。
何時の間にか、自分の周辺はね。円満になっておったと言う様なおかげを一つ、本当に頂かにゃいけんです。それには本当に信心を頂かにゃいけんです。お互いが信者であると言いながらね、信者ではありましょうけれども、親の神様の言う事を聞きよらぬ。本気で、その気になって、それに取り組ませて頂くと言う事。ましてや信心がないならばね。例えば、神の言う事を聞こうともしない。
言う事を聞かぬ子は、親でも仕方がないというわけでしょうけれども。これは信心がないから、ま神様、諦めようが良うありなさろうと思うですね。仕方がないまた神様と、信心する様になるように、まぁ祈って下さるぐらい。けれども金光様、金光様、生神金光大神様、天地乃親神様と言うて、もう毎日毎日拝みよって、毎日毎日お話を頂きよって、そして、おかげを頂ききらん氏子は、もう神様が、本当に血を吐く思いで、悲しみなさるじゃろうと思うです。
何故かと言うと信心を頂こうとしない信者氏子の上を、今日は聞いてもらった。どうぞ信心して、おかげを受けてくれよと仰る。信心を頂くという事は、先ずはね。ほんなら合楽理念を、本気でマスターさせて貰うて。合楽理念をマスターすると、大変に難しいと思うておった、難儀と思うておった事がですね。見やすうなってくるです。はぁこれが信心と言うもんだなぁ。これが信心を頂いていくという事は、こういう事なんだ。これはいただかにゃという事になってくるです。
そしてそれが三年、五年、十年とたっていくうちにです。合楽理念が血に肉になった頃にはです、もう私の周辺にはね。難儀がないと言う事までにまで高められ、おかげ頂いて、それこそ真善美に輝くようなおかげの世界が、そこから開けてくるんです。そういう信心を私はしてくれと言われるのは、そういうおかげを受けてくれよち言う事だと思うです。ですから今日は信心のある、いわゆる金光様の信者信奉者と、自分でも自負しておるのだけれども、神様の言う事を聞きはおらんと言う事。
参って来いと言うても参ってこん。ちった早起きせろと言うても早起きせん。なそうと思えば子供でもなせる様な事を、いい加減にする。はぁ金やら無駄遣いするなと言われても平気で使う。もうこういう風にして言う事を聞かんでね、あの神様を恨む様な人があるです。昨日私がお取次ぎさせて頂いた人も神様への恨み。私はどうしたならば言うならば、こがしこ神様にもお縋りし、何十年の信心させて貰いよるけれども。どうしたならば、子供達がこんな風に一人ひとり、私を裏切って行く事になるだろうか。
もうお先が真っ暗だという事です。だから本当にもう、あんたもう本当、了見にゃ及ばんと思うのと、こらまぁ人間心でそげん言うから、そげん言うてやっぱ聞かにゃできん。けれども結局はあんたが、子供にばっかり尽くしてから、神様にゃいっちょん尽くさんけん、そげなこったい。人間心で幾ら尽くしてやら、尽くしてやるほどあげんもしてやった、こげんもしてやったと思うから、余計腹が立ってくる。だからね、そん子供に尽くすとは、もう当たり前。人間心使い過ぎちゃならんと。
自分が金も持たんとに、工面してやって金作ってやって、そげなこつが要らんこったい。その要らんこつ。それでもまだ分からん。自分だけはこんな信心しよるけども、どうしてこげな不幸せな目に合わんならんだろうかと、やっぱ思いこんどる。もう信心ぐらいすっきりとした、はっきりとしたものはないです。もう本気で信心になってご覧なさい。おかげがすきっとしてくるです、もう絶対。
だからそれを楽しみに、ほんならもっともっと、この心がすっきりとはっきりしてくる一つの修行と言うか、それに取り組むという事が、信心を頂いて行くと言う事なんですから。それも三年、五年の信心では、まだ迷い易いと言われるくらいですから、そういう信心でもほんなら、十年とほんなら自分で自分の心が拝めるという事は、以前の私ならば、情けなくて、情けない涙がこぼれることであろうけれども、十年後の今日は、その事が、ありがた涙がこぼれるほどしになっておるという時に、初めて、和賀心がまつれる時です。そういう心の状態を目指していくのです。そこには、必ず、人間の幸福の条件の全てが、必ず足ろうです。もう、この神様は、絶対間違いがない、大地叩くほどしに間違いがないです。もう、五と五と足せば、ちゃんと、十にならにゃならんごとなっとると、信心ちゃ。それが、八にしかならん、七にしかならんと言うなら、自分の計算が間違うとるとじゃから。しかも、大変難しいことじゃない。見やすいところで間違わせて行きよると言う事なんです。頭を捻らんならん事はないて。
私は、この世での生き甲斐と言うものはです。本当に、信心にならせて頂くという事が生き甲斐でなからにゃいけんと思うです。人間全てがね。だから、そういう気になって、信心させて頂く時に。神様の喜びがあるだろう。何十年信心しておっても、神の言う事は、一つも聞かん。それでいて私だけが信心するばってん、いっちょんおかげ頂ききらんてんなんてん。もう絶対もう本当に、自分がどれくらい神様の言うて下さる事に、忠実であるかと言う事ば、もう一遍確かめて。
ほんなら、忠実のある事は馬鹿らしい事か。忠実にある事はきついことか、苦しい事か、決してそうじゃないと。それを本当に身に付けていくと、そうしなければ実際はおられない。そういうあり方を、身に私は付けていく稽古が、信心だという事です。拝む稽古じゃない。参る稽古じゃない。水かぶったり断食したりする稽古じゃない、自分の心の中に、そういう本当の事が分らせて貰い、言うならば、肉眼をおいて心眼を開くという事でもありましょう信心とは。
心の目をもってするから、一切が有難いものに見えてくるのです。ほんなら有難いものが見えてくるだけ、やっぱり苦しい事は続いておる。そう言う事は絶対ないです。そういう心が開けてきたら、必ずそれに伴うた言うなら、人間の幸福の条件が足ろうてくるです。だから皆さんは私も含めて、そういう修行中である、そういう修行をして頂いておるのである。合楽理念とはそこをもうそれこそ、一分一厘間違いの無い表現をもって、私共にね。迫るようにこれを身に付けてくれと、今の合楽では言われてある。
それを身に付けていくことの楽しみ、喜びそこには人から、裏切られようが子供から裏切られようがね。そこにあるものは、神様相すみませんと有り難う御座いますと言うだけしかない。そこには裏切った子供が、本当にどうもすみませんと言うて、また子供の方から、慕い申して来る様なおかげを、必ず頂ける事だと私は信じております。人間関係だけでなく、一切の上にそうです。
これは大体、信心のない者に対する、神様のこれはお言葉でしょうけれども、信心をさせて頂いておっても、信心を頂こうとしない氏子は、なお一層神様の悲しみは、大きいんじゃないかと、私は思います。道を教えて頂いておりながら、幸せの道を歩こうとしないんだから。幸せの道を本当に教えて頂くんだからね。歩かせて頂く一つ、決心をしなきゃいけません。一心発起しなければいけません。
そこから信心が身に付いて来る。信心が身に付いて来るという事は、力が付いて来る、徳も付いて来る、光も付いて来る。ほんなら人間の幸福の条件、本当に信心ちゃもうこげん有難かものはなかと、私、高橋ん、思うがのと。それ、どうして皆、頂こうとせんじゃろうか。不思議で不思議、私はたまらん。私昨日高橋さんにそげん言うて話した。そう高橋さんにも、聞いて貰わんならんと思うて話した事です。これだけ沢山のほんなら合楽に参ってくるが。
ただ目先のおかげが、一つ二つ成就すりゃ、もうそれをご利益とかおかげとか言う。そしてもうそれでこと済んだように思うて、神様の言うことを聞こうとしない。本当に、もう、こげな有難い道があるのだからと言うて、ほんなら私がそれこそ、鳴り物入りで宣伝して回っても、言うとを聞かなければ仕方がない。いやここにお話を聞きに来てくださる方達でもです。聞いておってくださっても、それを、守らなければ仕方がない。難しいことは言うてはおりません。
私が今日、高橋さんに申しますように、もうこげな有難いもう本当に、信心の道有難い信心ちゃ、こげな有難いものはないと。それを皆が頂こうとせんと、もう私は不思議で不思議でたまらんと、高橋さんが、そう言われる。本当におかげを受けてくれよと言われる、神様のあのお言葉は、あれは神様のもう本当に切なる、もう本当に血を吐くようなお言葉ですねと、高橋さんもそれを言うておられました。
分かったの、分かったならば、いっちょ本気で、神の言う事を聞く気にならなきゃいけないよと言うわけです。だからせめて、合楽の信奉者の全部の人が、私の話を聞いてくれる方達がね。本気で信心ちゃ、こげん有難いものはないと。そして本当に言う事を聞いてくださらん方達に対してです、歯がいさの感じれれるくらいな信心を、一つ見につけたいですね。
どうぞ。